それからしばらくして僕は滝さんを見舞った。死を目前に控えているとわかってしまった人間を見舞うのだから、多少自分でも戸惑っていた。
 ただ、いつもの場所に車を止めてホームの方に歩き出したら、二階のベランダに頭からすっぽり毛布を被ってじっと僕の方を見ている人がいるのに気がついた。その側には園長先生の姿も見えた。僕はそれが滝さんだとすぐにわかったので、すぐにホームに向かって駆け出していた。
 そして建物のすぐ側までくると、滝さんが僕を見てにっこり微笑み、「兄ちゃん、待ってたよ。悪いが上がってきておくれよ。」そういって弱々しく手を振った。
 僕は園長先生に頭を下げ、急いで2階に駆け上った。
 ベランダのところまでくると、滝さんは園長先生に抱きかかえられるようにして僕を待っていた。

 「おはようございます、ショウさん。滝さんがどうしてもショウさんに頼みたいことがあるといって、おとついからずっとこうしてショウさんが現れそうな時間になるとここで待ってたんですよ。体に悪いから中で待とうといっても聞かなくて。」園長先生は僕がやっと現れてくれてほっとしたのか、笑いながらそう話してくれた。
 「バアさん、なにを我がままいってるんだ。寒い中で一緒に立ってる先生のことも考えなくちゃ。いいからもう中に入ろう。」僕はそういって滝さんの体を支えるために近づき、中腰になって滝さんの腕を僕の首に回させた。意地っ張りで、気丈で、なんでも自分でこなそうとしていた2、3ヶ月前までの体の力強さがなくなっていた。
 滝さんは黙って僕と園長先生の指示に従い部屋に入ってくれた。

 「で、滝さん。僕にいったいなにを頼みたいんだい。勿論僕にできることならなんでもしてあげるけど。ただし外出のお世話だけはごめんだね。寒い所は人一倍嫌いだからね。」僕はそういっておどけてみせた。
 滝さんはしばらく僕の顔をじっと見つめていたけど、急に僕の手を握り言った。
 「兄ちゃん。このババはもう先が長くない。誰もそうはいってくれないが、自分が一番ようわかる。園長先生も兄ちゃんももうわかってるじゃろ。」そういって握った手に力を込めた。
 僕はいったいどう答えればいいのか困ってしまい園長先生に助けを求めるしかなかったのだけれど、先生はもういいからというように顔を横に振った。
 滝さんは僕達が想像する以上に凄まじい生き方を貫いてきた人だと聞いた。そんな人に慰めの言葉は返って失礼なのかもしれなかった。

 「兄ちゃん、頼みというのはな。わしが死んだら、これをいつでもいいから姉さんのところまで持っていってくれて、姉さんの墓の隅でもええから埋めてもらえんじゃろか。兄ちゃんはこんなところで埋もれてしまうような男じゃなかろう。きっともう一度広い世界に出て行くんじゃろ。そのときでええからな。」
 滝さんはそういって、懐から白い封筒を取り出した。
 「わしは結局この50年の間、姉さんに会うことも訪ねることもできんじゃった。ずうっと昔姉さんが日本に居た頃は、わしのことを本当にようく可愛がってくれたもんじゃ。本当は姉さんが生きてるうちに一度でもいいから会いたかった。だけどそれもかなわんかった。」
 遠くを見つめるような目に泪が溢れていた。
 「わしも姉さんも仏になってしまったら国がどうじゃとか、相手がどうじゃとか、難しいことはなにも考えなくてええじゃろう。できれば天国に行ったら一緒に暮らしたい思うてな。」滝さんはすがるような目でそういって、僕にその封筒を差し出した。

 僕はしばらくの間滝さんの顔をじっと見つめた。そしてその封筒に手を伸ばした。
 「わかったよ滝さん。きっと僕が滝さんの願いを叶えてあげるからね。滝さんの気持ちは僕がオーストラリアまで必ず運んであげるからね。安心していいよ。」
 滝さんが安心したのか、静かに頷いた。
 まさかこんなところで全くの他人に遺言を託されるなんて思いもよらなかったけれど、だけどこれもここの園庭で僕がオーストラリアを見たことから始まったことで、全ては不思議な縁といってよかった。もしかしたら僕が滝さんの願いを快諾したことで、有紀も喜んでくれているかもしれないとさえ思った。
 僕は滝さんにあまり無理をしないようにいってそのまま帰ろうとしたのだけれど、ロビーに下りたところで園長先生に呼び止められた。

 「ショウさん、ごめんなさい。とんだ無理を頼まれてくれて。でも決して無理はしないでくださいね。なにせオーストラリアですからね。」園長先生は本当に申し訳なさそうな顔でそういった。
 「いいんですよ、たぶんきっとそういうチャンスがあると思います。すぐっていう訳にはいきませんが何とかしてあげようと思います。」
 「そうですか。本当にありがとう。心から礼をいいます。」そういって園長先生は深々と僕に頭を下げた。
 「実はね、滝さんという人は自分から目立つことを嫌う人で表にはでていませんが、これまでに数多くの功績を残された人なんですよ。どうしてそうなったかは私もよくは知らないんですが、昔は相当な資産家の子女だったらしいんですね。それがご両親が亡くなられてお一人になられてからは、その殆どの財を施設や両親を持たない子供達の教育費として惜しむことなく寄付されたようなんですね。手元になにもなくなってからも肉体労働で細々と得たお金を寄付されたりもしたようです。滝さんの厚意で救われた子供たちは沢山います。今こうして滝さんに市のホームに入ってもらっているのは、せめてもの我々のお礼なんです。」
 園長先生は昔を振り返り、感慨深けな顔でそう教えてくれた。



 それから1月ほどして滝さんは逝ってしまった。僕もゴギも見とれなかったけれど、園長先生の話だと何も思い残したことのないような安らかな寝顔だったそうだ。
 だけど僕もゴギも滝さんの告別式に訪れる人の数には驚いてしまった。まったく滝さんには縁のないようなこの街の実力者から若者まで、幅広い年代の人達が弔問に来ていた。僕達からすれば何でもないような一人の老婆の死だったけれど、ここまで凄い数の人達が集まることで改めて滝さんが生前してきたことの凄さを知らされた思いだった。
 「兄ちゃん。あの世には何も持ってはいけんからの。全て人の役に立って残せればそれが一番じゃ。」そんなことを以前滝さんが言ってたことを僕は懐かしく思い出していた。
 僕もゴギも結局最後まで滝さんから暇人として扱われてきたけど、滝さんはキツイ言葉とは裏腹にいつでも温かい視線で僕達を見つめていてくれた。そして「こんな小さな街はあんたらには似合わんから早く出て行け。」と会うたびに何度も叱咤されていたが、そんなことをいってくれるのも滝さんだけだった。

 いつも滝さんのところを訪ねるとよほどテンポが合うのか、キツイ言葉でもぽんぽん受け答えをして滝さんを喜ばせていたゴギも、さすがにこの日は口数が少なかった。
 そのゴギが告別式の帰り、珍しく話があるからといって僕を喫茶店に誘った。これまでだいたいゴギに相談を受けると頼まれごとが殆どで、またなにかあるのか勘ぐってしまったが、以外にもゴギの話というのは「もう一度ロンドンに行こうと思う。」ということだった。
 「ショウさん。いつだったか滝さんに人生を振り返って悔やむようなことはするな。自分がよしと思うことは結果が無駄に終わってもしろっていわれたよね。あれから俺は自分の中でずっと燻ぶり続けていたこを何とかしなけりゃいけないなと思ったんだ。それでロンドンのフレアの叔母さんのところに手紙を書いた。だってロンドンを飛び出したのがあまりにも中途半端な形だったし、フレア自身には悪いとこがないんだもんね。単純に俺が色んなことに失望してしまって、勝手に彼女との縁を切ってしまったようなもんだからね。だからフレアのその後のことは知りたかったんだ。」そういってゴギはしばらくの間うつむいた。

 「先週返事が来たんだ。有紀さんが死んで8年だ、9年だっていってたけど、俺がロンドンを離れてからも同じ位時間が経ってるんだよね。フレアの叔母さん随分懐かしがってくれてた。それにね、叔母さんの話しだとフレアまだ一人でいるらしいんだ。どうも俺達のこと両親に反対されて、俺が一人で勝手に思いつめてロンドン飛び出したこと随分気にしてたらしい。そのことで彼女相当悩んでたって書いてあったよ。それと、フレアは今でもあなたを待っているともね。だからどうしてもロンドンに帰らなけりゃいけないって思うんだ。」
 フレアという女性はどちらかというと物静かな人で、僕はひと昔前の古風な感じの日本女性のイメージをいつも彼女にダブらせていた。長い髪にブルーの瞳、そしてしとやかさを感じるのだから、いつもゴギにはできすぎと思っていた。そんな人が待ってくれているというのならこんな幸せなことはない。
 「そうかゴギ、そういう話なら是非ロンドンに帰るべきだな。それに今のお前は以前に比べると数倍ヘアー・アーティストとしての経験を色んなところでつんでるんだから、きっと今度はロンドンでも生きていけるさ。」すでにゴギは腹を決めているせいか確りと頷いていた。

 ゴギはロンドンに飛ぶための飛行機のチケットもすでに手配しているらしく、今の仕事と住家の整理を早く済ませて、少しでも早くロンドンに向かいたい様子だった。この男は腹をくくると本当に行動が俊敏になる。思い返したらいつもそうして僕の後を追ってきた気がした。
 「だけどなゴギ、和歌山の実家には必ず寄って行けよ。もしかしたらこれで当分日本には帰れないかもしれないし、身を固めることにもなりそうだもんな。」
 ゴギは「エッ。」という顔をしたがしぶしぶ頷いた。
 「ショウさんには何もかえせなかったけれどいつかまた会えるよね。」
 「いや。もう金輪際ごめんだね。昔ロンドンを俺が離れる時もそういって、結局お前はアメリカに来たからな。」昔のことが思い出されて僕達は大声を出して笑った。
 「ただなゴギ・・。」そういいかけて僕は言葉を切った。「まァ、いいか。」僕はあることをゴギに伝えようかと思ったがやめた。いまのゴギには伝えない方が賢明と思ったからだ。

 それから2週間してゴギは日本を離れた。ちゃんと和歌山の実家に寄ってけじめをつけたからという連絡をゴギから受けて僕はほっとした。
 ゴギは約3年間僕の居る街で暮らしたけど一度も実家に帰ろうとしなかった。両親とも健在で絶対心配してるから帰れと何度も言ったのだけれど聞こうとはしなかった。頑固者のゴギがどうしてそこまで意地を通そうとするのか、僕にはわからないでもなかった。
 「意地を張って日本を飛び出しておいて、僕は何かを掴んだと思いますか。僕は他人に誇れるものをこの手で掴んだとは思っていない。そんな状態でのこのこ帰れますか。このままじゃどの面下げて帰るんですか。」僕はゴギとロンドンで知り合ってから何度となくそう聞かされた。その気持ちは十分理解できた。
 ただ今回に限っては、ゴギも自分の人生の中でひとつの区切りが訪れたと感じているようだった。今のゴギなら仕事を得る事は容易だと思うし、何よりも待っていてくれる人がいる。それは自分に自信を感じる十分な理由といえた。だから素直に両親に会いに行けたのだと思う。



 ゴギがイギリス行きでバタバタしている間、実は僕の方にも大きな変化が起ころうとしていた。
 以前働いていたオーストラリアの会社から、もう一度こっちに来て働かないかという連絡を受けていた。2000年の夏季オリンピックも現実味を帯びてきたし、経験のあるスタッフを今のうちに集めたいのでどうかという連絡だった。この誘い話は僕には願ってもない話だった。
 本当はこのことをゴギにも話そうかと思ったけれど、結局思いとどまった。話してしまえばいつまた何時ゴギの逃げ場所として利用されるかわからないからだ。もうゴギには彼自身の路を歩いてほしいという願いもあった。
 そんな訳でゴギは何も知らないままロンドンに飛んでいってしまったけれど、僕の方の出国準備と身辺整理は誰にも黙ったまま進められていたのだった。
 僕が滝さんの最後の願いを聞いてあげることができると思ったのには、そんな理由があったからだった。

 それからしばらくして出国の日にちが決まると、僕は通いなれた入り江のホームにお別れの挨拶に出かけた。
 いつもの場所に車を止めて100メーターほどの距離を歩きながら、滝さんを見舞ったときを除くと、僕ははじめて釣竿を出さないでこの道を歩くなと思った。何度も通った場所だけど、いったい釣りに来てたのかあの穴を覗きにきてたのかわからなかったなと思ったら可笑しくなってしまった。エサ代ばかり浪費して実入りが少なかった釣りは、たぶんこのホームを訪ねるためのポーズでしかなかったかなというのが正直な気持ちだった。
 園庭に入り込むと、しばらくの間僕はいつもの場所に座って塀に開いた穴を眺めた。相変わらず代わり映えしない絵にしかなっていなかったけれど、あの時にだけ見えたオ-ストラリアのあの風景から始まって、いったいどれだけの思い出をここでもらったんだろうと思った。重さんも滝さんも園長先生も入居者の人達も皆いい人達で、僕はずいぶん勝手な行為を続けさせてもらっていた。そのことが凄く嬉しかった。

 園長先生は僕の姿を見かけたらしくすぐに出てきてくれた。
 僕はこれまでのことを丁重に感謝しお別れをいった。
 「そうですか、やはりあなたは出て行くんですね。滝さんが言ってました。あの男は色々知りすぎてる。色んな世界の現実を知りすぎた男がこんなちっぽけな社会で生きていくことは大変なことだ。だから出て行った方がいいんだとね。滝さんも喜んでくれてますよ。あなたは気に入られてたから。」
 僕の姿を見かけると悪態をついていた老婆の姿が妙に恋しかった。滝さんは陰でほんとによく僕のことを見ていてくれたんだと思った。
 「ちょっと待ってて下さい。重さんを呼んできますから。彼もお別れが言いたいでしょう。」園長先生は僕にとってもう一人の大切な友人のことも気に掛けていてくれたらしく、そういって重さんを呼びにいってくれた。
 敷地の端の方で洗い物を干している重さんの姿が見えた。園長先生は重さんのところまで行くと、ひとことふたこと話をして重さんの手を引いて戻ってきた。歩きながら重さんは何かをしつこく聞いているようで、園長先生は同じ言葉を繰り返しているように見えた。

 部屋に入ってきた重さんに僕は持ってきた包みを渡した。自宅でずっと使っていたCDラジカセだった。
 荷物の整理をしながらふと重さんのことを思い出し、そういえば重さんの部屋を一度訪ねたときあまりにも何もないことに驚いたことがある。ほとんど身の回り品だけといってよかった。何となく僕にはその寒々とした部屋が辛かった。それでどうせ人にやるなら重さんに貰ってもらおうと思って持ってきたのだった。
 重さんは理由がわからないせいか手に握らせてもきょとんとしていたが、僕があげるといったのはわかったらしく、こぼれんばかりの笑顔を見せて喜んでくれた。
 「重さん、これでお別れだよ。いつまでもいつまでも元気でね。」僕はそういって重さんの手を握った。
 すると重さんの目から急に大粒の泪が溢れ出し、重さんは大きな声で泣き出してしまったのだった。
 僕も園長先生もこれには驚いてしまった。

 実は滝さんの告別式のとき、最後のお別れをするために園長先生に連れられてきた重さんは、棺の中で花に囲まれた滝さんの頬や頭を優しく撫でながらかすかに微笑んでいるだけで、泪は結局みせることはなかった。それでも引き下がるときに一度振り返って哀しそうな顔はしたのだけれど、それでも泪はみせなかった。
 「重。めそめそするな。」「重。男は泣いちゃだめだ。」「重。なにをそんなつまらん顔してる。へこたれるな。」重さんはそういっていつも滝さんから怒られながら励まされていた。だから滝さんの死がわかっていても、重さんはその言いつけを守って泣かなかったんだと思う。
 だけど僕との別れには重さんの泪の妨げになるものはなにもなかった。だから僕との別れを悲しむというよりも、それは重さんの心に溜まった多くの悲しみがいっきょに解き放たれてでてきたんだと僕達は思った。
 そしてその泪が何よりも僕には辛かった。


  
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